いいね

だいたい5人の方が読んでくださったら終わりなので毎回適当なことを書き散らかしていますが、これでいいんだろうか。そのくせ詳しいことは書かないでおくという頑なさ…。ま、いいね。

公演が近づいているので、3時間半の立ち稽古だった。疲れた。立っているだけで疲れる。いつ怒鳴ら…大声で注意されるか分からないので神経も疲れる。でも喉は大丈夫だ。さすがに発声は身についているらしい。いいね。

複数人でひとつの作品を作り上げるのだが、人間それぞれ声はもちろん、読み方や表現の仕方にも違いがある。演出家が「こう読め」と正解を提示するものでもないので、「違うな」となれば何度でもやり直しをさせられる。正解はないけど、当たりはある…みたいな感じで、あるとき「これだ!」と自分なりに腑に落ちる瞬間がたまらん。

例えば、ある短いセリフを「各々の言い方で言ってみよ」と、順々に言わされた。前の人たちそれぞれに解釈が違うし言い方も違うが、それに惑わされてはならぬ。スッと息を吸って、パーン! いやー、うまく飛んだね。我ながら今のよかったんじゃない? と思ったらすかさず「いいね!」と老演出家の声が飛んだ。ここ最近で一番うれしかった。褒められることがないってぼやいたばかりだったしね。

自分でも思わなかった声が出た時、思うように感情を乗せられた時、続けて来てよかったなーとしみじみ思う。努力の成果などという大きなものではなく、千里の道も一歩から歩き続けているからその道の途中にいられるのよーという、なにこの喩え。

でも、私が「いいね!」をもらったからといって、その後、そのセリフの役の人が私のそれを真似るかといえば、真似たりしない。どこまでもその人はその人なりなのだ。それがいい。真似ない良さ、真似られない良さ。正解のない良さ。ただし、書いてあることを勝手に変えてはいけないという、ルールがある中での自由っていうの? それぞれの解釈、それぞれの表現。そして作品としてのまとまり。

私はやっぱり演る方が好きで、そこから派生した諸々のお仕事は、それがあるからこそ、その場を守りたくての有料奉仕みたいな気持ちで始めたのだ。でも、組織の方向性は真逆で、来年はもう、公演があるかどうかも分からない。季節は移り、人は歳を取り、同じ状態は続かない・・・ってね。

sakurai
書かなければ忘れてしまうようなことを書き、次の日には書いたことを忘れています。1960年代生まれ。♀。肩書不定。ただの「私」でありたいんだと青臭いことを言っても、読んだらわかるただの主婦。