わたしは牛だ

アスファルトの上を修行僧のように黙々と歩く。夏が来てしまった。

訪問者の数を気にしたくないならば、数字なんか見なければよい……というわけでブログの管理画面を一切見ないことにしたら、忘れてしまうのね、ブログごと全部。それじゃ本末転倒だ。

そういえば、前回書いた、横断歩道じゃないところを渡ろうとして知らない人に叱られた話だが、娘に言ったら「子どもだと思われたんじゃない?」と返された。たしかに、帽子も深くかぶっていたしマスクもしていた。小柄なので中学生に見えたかもしれない。そう言われてみると男の人は先生のような口調でもあったから、近くの中学校の先生だったんだろうか?

いずれにしろ、横断歩道を渡るどころか、あれから怖くてその道を散歩に行けなくなった。打たれ弱いのだ。

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最近、佐藤さとるの「だれも知らない小さな国」を読み返している。子供の頃、夢中になって読んだ小指ほどの小さな小人が出てくるシリーズだ。手の中に隠れてしまうような小さなお友達がわたしも欲しいと思ったものだったが、今も変わらない。ああ、本当に変わらないんだなー……。

ちょいちょい姿を表さなくてもいい。ときどき肩のあたりにふっと現れて、小さな声でクククと笑って存在を知らせてほしい。「何書いてるの?」「ふ〜ん」てね。

大勢のお友達なんかいらないんだ。一緒に旅行に行ったり食事に行ったりなんかできなくていい。ただ、なんでもないときに話し相手になってくれる、小さな小さなお友達がいてほしい。そして、コロナにはかからない体質だといいな。

本で思い出した。
今日は「これ、みんなが演りたがるのよ」という古い台本をWordに打ち直した。初めて読んだが、要するに「50はもちろん、60、70、80…いくつになっても恋はできるのよ!そして娘に返るのよ、わーい♪」というような内容の脚本だ。ある女流作家の言葉や生き方が元になっている。これ、「みんな」演りたがるの……?

「みんな」と言われているのは、それなりの年配女性たちだ。でもわたしは「みんな」じゃない。いくつになっても恋はできるんだという可能性を、生き生きと大きな声に出してに読みたい気持ちが分からない。恋に落ちちゃうのは分かるけど、恋がしたいと能動的に考えての浮き浮き感が分からない。それは人を想う気持ちとはどこか違う気がする。あ、「生き生き」と「生々しい」は似ているなぁ……。

わたしは牛のように反芻するだけで充分だ。

もちろん、人それぞれのことだけど。(と、言っておかないとモォ〜ゥ)

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sakurai
書かなければ忘れてしまうようなことを書き、次の日には書いたことを忘れています。1960年代生まれ。♀。肩書不定。ただの「私」でありたいんだと青臭いことを言っても、読んだらわかるただの主婦。