次の一歩

本屋さんで素敵な表紙に惹かれて手に取った雑誌。パラパラっとして、閉じた。何だかわからないけれどモヤモヤした。60歳を過ぎたらこれこれをやめれば幸せになる…そんな内容の雑誌で、やめるべきことが山ほど並んでいた。60になるとみんなそんなに不幸なん?

帰ってから気になってレビューを見たら、高評価ばかりだった。ああ、そうなんだ、いや、そうかもしれないけど、ええー? でもさぁーーーと、もやもやが募る。もちろん、私はちゃんと内容を読んでいないので、その雑誌の言わんとしていることがわかったわけではない。だから評価しているわけじゃない。

ただ、「あれやめようこれやめよう」が並んでいるのを見て、つまらなく感じたのだ。あれをやめてこれもやめて、あれ捨ててこれも手放して、そうしたら楽に自由になるとして、…それで? って思う。衣服の制服化も、買い物をやめろも、かえって窮屈に感じる方だ。

結局、そうしたい人がそうすればいいのであって、こうすればイコール幸せなんて、公式みたいに言われるから私の臍が曲がるんだろう。もちろん、それぞれが気に入ったところを取り入れればいいだけで、誰も全部そうしろと強制しているわけじゃないって、わかっているけどね。

例えば、ふた昔くらい前までは「老後に友達がいなかったら寂しい」という考え方が主流だった。でも今はどちらかというと「親戚も友人も、つきあいなんかしなくていい」だ。そう言われたら、元々つきあいが苦手な私は「ああ、それでいいんだねー」とほっとするけれど、そうじゃない人がわざわざ友人を減らす必要はない。

いやなことならやめればいい。不必要なら捨てればいい。
それ以上は逆に苦痛だ。

始めることよりやめることが必要とか、老後のためのダウンサイジングとか、それはそれとして頭にはある。でも、
どんどん終焉に向かって窄んでいく人よりも、明日も明後日も生きるつもりでトライを続ける人の方が好きだなーと私は思う。削ぎ落とすよりも、まだまだ足して行く方にエネルギーを使いたいし、そういう人を見ていたい。

そして私は、ほとんど読まれないブログをやめないで、三日連続で書いてみたりするのよ。

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sakurai
書かなければ忘れてしまうようなことを書き、次の日には書いたことを忘れています。1960年代生まれ。♀。肩書不定。ただの「私」でありたいんだと青臭いことを言っても、読んだらわかるただの主婦。