週に何度か仕事に行く事務所は細長いビルの8階にある。他のフロアは知らないが、8階には二部屋しかない。お隣さんのドアには、以前はポリネシアンなんとかという南国な感じの社名が書かれたプレートがかかっていたのだが、コロナ渦の影響で数ヶ月前に撤退し、以降、空き部屋になった。
そのままずっと、お隣は空っぽだと思っていた。表札も何もないままだし、静かだった。ところが今週、8階でエレベーターを降りて驚いた。マスクをしていてもタバコ臭がすごい。分煙化が進んですっかり忘れかけていたけれど、かつてはいろんなところに籠もっていたあの煙い臭いが、狭いエレベーターホールに満ちていた。一人の人がひっそりと吸った残り香なんていうものじゃない。ドアの隙間から煙が漏れてくるのが見えるんじゃないかというくらいだった。
相変わらずドアにはなんのプレートもなかった。でも確実に誰かいる。中はどんなになっているのか、もはや懐かしいくらいに昭和っぽい匂いだ。タバコを吸う人がやたらに出てきた昔のドラマの刑事部屋、新聞社、バー、ナントカ組……煙が部屋に充満していて、みんなが眉をしかめてて、灰皿には吸い殻がいっぱいで、すべてがモノクロのように霞んでいて……そんなイメージがドアの向こうに展開されている気がしてくる。
どうしよう、怖そうな男たちしか想像できない。
それでも幸い、事務所に入ればいつも通りで、匂いも入ってきてはいなかった。お隣から特に音がするでもない。いや、ポリネシアンなんとかさんがいたときも人の気配を感じることはほとんどなかったから、何が行われていたとしても分からないのかもしれない。
帰るとき、事務所を出るとホールにはやっぱりタバコ臭が満ちていた。そして、お隣のドアの前には食べ終わった出前の丼がふたつ。昔ながらの、塗装の禿げた厚い木のお盆の上に乗せられて置いてあった。古びた器からは、かすかに出汁や醤油の匂いも漂ってくる気がする。ますます昭和感が高まる。これはカツ丼か? 取り調べ中なのか? 「いい加減に吐け!」って、スチールの机をバンと叩いたり椅子を蹴ったりしてるのか?
何をしていてもいいけれど(よくないかもだけど)、とりあえずニオイは気になる。非常階段に出るドアを開けておけば少しは違うんだろうか。いちいち昭和にタイムスリップするのもしばらくは楽しそうだけれど。
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