身の程知りすぎ人

前にも載せたハナキリン。最初に咲いた一輪は一輪のまま散ったのに、次に咲いたのは七輪兄弟姉妹になった。七輪は「ななりん」と読むと可愛い女の子みたいで、「しちりん」と読むととたんに熱い。

今日も適当なことを書く。

電車の中で浅井リョウのエッセイを読んでいたら、久しぶりに笑いを堪えきれず、クックックッと鳴る気味の悪いひとと化してしまったので、残念だが電車の中で読むのは断念し、「夏への扉」へ戻った。(まだ読み終えていないのよ、夏が終わってしまうかもしれない)

笑えるエッセイの、何が面白いのかは読んだそばから忘れるのだが、「身の程を知る」ってことばがずっとつきまとっている。べつに、それがどこかに書いてあったわけではないけど、「身の程を知っている人」の面白さだよなーと、なんとなく思うのだ。謙遜したり卑下したりではなく、ただ、自分を知ってる人が語る。だから笑える。物事を客観視し、客観視できないものについては語らない。そんな感じ? まあ、単純にくだらなくって、何も考えずに笑える内容だから面白いってだけの話かも。でもそれって誰にでも書けるわけじゃないよね。

事務所で、今後の事業展開について話し合っているのを背中で聞きながら、私には全くそういう方面の意欲もないし、役に立つこともできないんだよなーとしみじみと思った。その事業というか、諸々の業務遂行ために、いずれ事務員を一人雇わなければならないらしい現実に、私に出来なくて申し訳ないねーと思うが、やる気もないし期待もされていない。社会にコミットしていくのは無理よ。

でもですよ、私だから出来る雑務というのがある。本業以外に、私にだから頼めるんであろう雑務。バリバリと営業をこなせる人には申し訳なくって頼めないような単純作業を、私は黙々とこなせるのであーる。それはそれで必要な雑務なのだ。ワードやエクセルを弄るくらいしか能のない私ではあるけれど、でも、それなら、できるのである。

適材適所。身の程を知っているから嫉妬心も湧かない。ミノホドシリスギアンとして、日々、雑務をこなすことも、誰かの為になる。(ついでにお金にもなる)

そしていつでも、辞められる。

sakurai
書かなければ忘れてしまうようなことを書き、次の日には書いたことを忘れています。1960年代生まれ。♀。肩書不定。ただの「私」でありたいんだと青臭いことを言っても、読んだらわかるただの主婦。